人生の終え方について考えてみる


人生の終え方は誰でも一度は考えたことがあるのではないだろうか。私は一度どころではなく、小さい頃からずっと考え続けてきた。もちろん答えは出ず、どのように生きようがその時が来てみなければ分からないのだろう。

多くの人は子どもや孫に囲まれて死にたいと言う。もはやテンプレ化されているが、だからこそ、これが1つの答えなのだろう。人間にとって、最も恐怖すべきは孤独であって、その他の苦労は確かに非常にツラいものではあるが孤独でなければ何とか乗り越えられるということなのかもしれない。

しかし、それ以外の状況については全く考えていない人が多い。生きている今、死に際など考えるほうがオカシイのかもしれないが、目標設定をしておかなければ自堕落的な生活が続いてしまう私にとっては明確な死に際を考えて置かなければ、悲惨な最期を迎えてしまいそうな気がしている。普段から物事の真理を追求したい性格なのもあるかもしれない。

人生の終え方を考えるにあたって、考えられるのは、家族の有無や子供の有無、財産・資産、社会的地位・名誉、職種などがある。こんなことを考えていては、中々前に歩み出せないのはよく分かっているが、何も行動せず後悔するくらいなら後悔するほど考えぬいた方がいい。過去を振り返って歩む人生よりは、人生の終え方という最も未来を見ていたほうがいいだろう、という確固たる言い訳も存在している。

これは友人には話したことがあるが、私は死に際に一人でも構わないと思っている。一人というのは家族や子供、また孫がいる状態ではあるが、看取られなくてもいいということだ。彼らは未来を生きているのだ。過去の人間になる人に構っている余裕も必要もないだろう。私個人も彼らが頑張ってくれていることが最も喜ばしいことだ。自分のお陰ではないとわかっていても、自分の遺伝子が少しでも役に立っている気さえしてくる。

本当に恐れるべき孤独死とは、後を託せる人がいないことだ。それは血縁関係者でも同僚でも後輩でも、近所の人でも何でもいい。自分が生きて学んだことを預けられる、もしくは預けた人がいれば、それは決して孤独ではない。

昨今はやけに孤独死を問題視しているが、本人にとって満足行く人生の終え方であれば、それは何ら問題ではない。看取られたいと思うかも、結局は本人の気持ち次第だ。世間にはよく分からない常識がはびこっているが、常識で捉えられないほど価値観が多様化していることは忘れてはいけない。

2012年8月21日 投稿:エイドギース




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