社会問題になっている”いじめ”という問題について考えてみた


正直に言うと反発が怖くて、”いじめ”の問題については自分なりの考えは持っているものの、情報を発信することは避けてきた。私はいじめらしい”いじめ”は恐らく受けて来なかったので、本当にいじめられている人の気持ちは到底分かりはしないのだろう。しかし、それでも私なりに思うところはあるので、支離滅裂になるかもしれないが、書いてみようと思う。

いきなり話はそれてしまうが、働き蟻の割合の話をご存知だろうか?蟻は働き者だというイメージが強いが、実は2割の蟻しか働いていないというのだ。これは働かない蟻を取り除いても、また同じ2割だけが活発に働き、働く蟻を取り除けば、それもまた2割の活発に働く蟻が新たに誕生する。

こういった法則は人間社会でも見られるのだが、いじめにしても同じ問題なのではないかと思うのだ。つまり個人の是非に問わず、性格上または環境上、いじめる人といじめられる人という構図は出来てしまう。これは何も人間に限った話ではなく、生物全ての特徴なのだろう。

人間の場合、それを克服することも出来ると信じているが、子供の場合は不可能だ。だからこそ、大人がセーフティネットとして存在しなければいけないのだが、大津のいじめ問題では、セーフティネットが機能しなかった最低の例として連日取り上げられていた。

話は戻るが、いじめにしても、一定の割合でいじめる人といじめられる人というのが存在する、というのが私の考えなのだが、倫理観等でこれを克服できない限り、いじめの問題は決してなくならないのだ。例え、いじめられている人を別の環境に置いたとしても、結局はまた新しい”いじめ”の対象が作られてしまうだけで、いじめられている人を救出することは出来るが、いじめの問題を根本的に解決することにはならない。

残念ながら、これは逆も成立する。いじめっ子だけを取り除けば解決するように伝える記事もあるが、そんな訳はない。いじめっ子を取り除けば、また新たないじめっ子が誕生するだけだ。現実には、いじめられていた子がいじめっ子に変わることもあるのだ。いじめには程遠いかもしれないが、これは私も経験した。驚いた。決して人をいじめることのなかった人が、平然と、むしろ他の人よりも過激にいじめることもあるのだ。

残念ながら、いじめはなくならないと感じた。諦めるのは早すぎるのかもしれないが、それを抑える抑止力のある第三者が口を出さなければ、この構造はなくならないのだと思い知らされるには十分の出来事だった。ただ、いじめられている人もしくはいじめている人を別の環境に置けばいいというわけではない。決して、そんな簡単な問題ではない。

私が改めて、いじめの問題について記事を書こうと思ったのは、「死の瞬間、最期の言葉 散り逝く者の遺言・名言2~人はその時何を想う~」という動画で最後にいじめられて自殺した子供の遺言を見たからだ。最後の一行には、彼女の純粋な優しさが見えた。一人家で泣いた。

動画のコメントには、色々な意見があった。イジメられる方が悪いという人もいじめる人が100%悪いという人もいじめた人を晒せという人もとにかく色々な意見があった。しかし、ちょっとしたキッカケでいじめていた人がいじめられる対象になるのだ。これは本当に些細な事で立場が逆転してしまう。

これを天罰という人もいるだろうが、結局は負の連鎖になっているだけで、いじめの問題はむしろ深刻化している。いじめられている人が過去に人をいじめていたために、世間に全く同情してもらえなくなるのだ。この連鎖が続けば、いじめの問題がなくなるどころか悪化する。

私の考えで言うと、いじめはなくならないからこそ、止めなければならない。直接いじめ問題に関わっていない周りの人が止めなければいけないのだ。そのセーフティネットだけは絶対に安全で安心できるものでなければならない。もし、教師や警察にはその荷が重すぎるというのであれば、別の機関を公的に設ける必要がある。

一応いじめられた時に電話するコールセンターのようなモノはあったが、やはり直接会って話しをできなければ、子供にとってはあまり意味を成さないように思う。こんな時に自分の無力さを痛感するが、せめて自分の意見を発信することは続けていこうと思う。

最後に、いじめられている人に対して、最も助けになるのが人の温もりだと私は考えている。だからこそ、いじめられている人には、ただ強く抱きしめてあげて欲しい。人の温もりはそれほどに温かい。

2012年8月23日 投稿:エイドギース




Copyright© 2012 エイドギース All Rights Reserved.